2010年02月11日
教え手
「教え手」と一言で言っても、親や家族、友達や先輩、同僚や上司、先生や師匠、講師・・
互いの立場が違えば、教え手のあるべきスタイルも変るものですし、状況や環境も違えば、何を一番重要に伝えるべきか?と言うことも変っていくと思いますが、往々にして、誰しもが「人に教える訓練」を受けている訳ではないので、「教え手」の伝え方には、必ずといってその人の個性、性格が出るものだと思います。
半年前に少し離れた工場に応援として出る機会があり、少しでも他部署の仕事を吸収してこようと、意気込んでいきました。
応援期間が終わりに近づき、私の引継ぎとして、新卒の大学生が着くことになり、私はその子に教える立場になりましたので、一週間くらいをかけて、教え込んでいきました。
若くやる気もありましたので吸収がよく、予定よりも早く覚えてくれたので、上司から独り立ちの指示をうけたのですが、その二日後くらいに、ちょっとしたミスをしました。
その後、応援者同士で最後に食事をしようという話があり、その席で、同僚から(私の教えていた姿や後継者がミスをした過程を見ていて)「君の教え方は甘いのじゃないの?」という意見をもらいました。
同僚曰く、基本的なことだけを教えて、後は目の前でミスをおかすまで独りでさせて、そのミスを指摘する(叱る)ことで、身体に教え込むほうが確実で早い、というのだそうです。
少しやさしめに表現すると↑なのですが、要はスパルタ的な方法で、自分の身体で覚えさせて、自分でどうするべきか、自分で考えるべき、という意見です。
私も「やってみて、やらせてみて」を繰り返していたので、指摘(叱る)をしなかったわけではないのですが、同僚にはフォローし過ぎと見えたようです。
この話はあくまで参考で、環境や人によって状況がまるで違ってしまうでしょうから・・
どんな教え方が正しいか?という答えは無いのかもしれません。
ただ、私がこれまで経験した中で、人のヤル気を殺ぐ行為、教え方だけは許せないと思ってきました。
私は実家が八百屋で、中学生の頃には朝の3時くらいから、父親に着いて市場の喧騒の中で(ネボケ眼を擦りながらも)働く人の姿をみてきました。
人が一生懸命働く姿は、ずっと憧れの対象で、ソコに生き甲斐(遣り甲斐)を持つことが自分の幸せに繋がるのだと思っています。
ヤル気を殺ぐということは、相手の生命力を奪うも同然だと思っています。
これまで、何度か理不尽な教え方、叱られ方を経験したことがありますが、その度に、私は絶対、人にこの苦痛を感じさせたくない、同じ想いをさせたくないと思ってきました。
「飴と鞭」という言葉がありますが、人には飴も鞭も必要。
自分の定規ではなく、その人のがんばりを認めてあげることが、意欲に繋がるのだと思います。
失敗しても、がんばったら褒めてあげることも大事だと思ってきました。
少し話がズレ気味かもしれませんが、
私にとって重要なのは、作業を教えることではなくて、その人のヤル気を伸ばしてあげることなのかもしれません。
互いの立場が違えば、教え手のあるべきスタイルも変るものですし、状況や環境も違えば、何を一番重要に伝えるべきか?と言うことも変っていくと思いますが、往々にして、誰しもが「人に教える訓練」を受けている訳ではないので、「教え手」の伝え方には、必ずといってその人の個性、性格が出るものだと思います。
半年前に少し離れた工場に応援として出る機会があり、少しでも他部署の仕事を吸収してこようと、意気込んでいきました。
応援期間が終わりに近づき、私の引継ぎとして、新卒の大学生が着くことになり、私はその子に教える立場になりましたので、一週間くらいをかけて、教え込んでいきました。
若くやる気もありましたので吸収がよく、予定よりも早く覚えてくれたので、上司から独り立ちの指示をうけたのですが、その二日後くらいに、ちょっとしたミスをしました。
その後、応援者同士で最後に食事をしようという話があり、その席で、同僚から(私の教えていた姿や後継者がミスをした過程を見ていて)「君の教え方は甘いのじゃないの?」という意見をもらいました。
同僚曰く、基本的なことだけを教えて、後は目の前でミスをおかすまで独りでさせて、そのミスを指摘する(叱る)ことで、身体に教え込むほうが確実で早い、というのだそうです。
少しやさしめに表現すると↑なのですが、要はスパルタ的な方法で、自分の身体で覚えさせて、自分でどうするべきか、自分で考えるべき、という意見です。
私も「やってみて、やらせてみて」を繰り返していたので、指摘(叱る)をしなかったわけではないのですが、同僚にはフォローし過ぎと見えたようです。
この話はあくまで参考で、環境や人によって状況がまるで違ってしまうでしょうから・・
どんな教え方が正しいか?という答えは無いのかもしれません。
ただ、私がこれまで経験した中で、人のヤル気を殺ぐ行為、教え方だけは許せないと思ってきました。
私は実家が八百屋で、中学生の頃には朝の3時くらいから、父親に着いて市場の喧騒の中で(ネボケ眼を擦りながらも)働く人の姿をみてきました。
人が一生懸命働く姿は、ずっと憧れの対象で、ソコに生き甲斐(遣り甲斐)を持つことが自分の幸せに繋がるのだと思っています。
ヤル気を殺ぐということは、相手の生命力を奪うも同然だと思っています。
これまで、何度か理不尽な教え方、叱られ方を経験したことがありますが、その度に、私は絶対、人にこの苦痛を感じさせたくない、同じ想いをさせたくないと思ってきました。
「飴と鞭」という言葉がありますが、人には飴も鞭も必要。
自分の定規ではなく、その人のがんばりを認めてあげることが、意欲に繋がるのだと思います。
失敗しても、がんばったら褒めてあげることも大事だと思ってきました。
少し話がズレ気味かもしれませんが、
私にとって重要なのは、作業を教えることではなくて、その人のヤル気を伸ばしてあげることなのかもしれません。